映画『カタストロフィー(Aghet-Ein Völkermord)』を見て。
北川誠一
作品の状況
この映画は、ドイツ人映画監督エリック・フリードラーの2010年公開のアルメニア人ジェノサイドに関するドキュメンタリードラマ映画である。初封切り上映は同年4月8日ベルリン、7月23日にはワシントン(特別区)のキャピタルヒルでも上映された。製作はNDR(「北ドイツラジオ放送局)で、ARD,3SAT,Phenix,Arte等のテレビ局から放映された。インターネット上で公開されていたが、(https://www.ndr.de/kurtur/kino_und_film/ndr_produktionen/aghet.index
/htlm)現在では、you tube、dailymotionnadodeで種々のファイルがアップロードされている。ドイツ語版の他にフランス語、英語、ロシア語、アルメニア語版の存在が確認できる。フランス語版はArteが独仏2国語放送なので、同局からの放映に際してドイツ語を基にして作成されたものと考えられる。英語版の作成の経緯は不明であるが、オリジナルのドイツ語版およびフランス語版と同じく、ナレーションと台詞は配役ごとの吹き替えになっている。しかし、音声の一部がドイツ語と被っているので、フランス語同様二次的に作成されものと見られる。また貼り付け上若干の瑕疵が聞き取られる。ユーチューブにおかれているほとんどの英語版ファイルは映像の裏表が逆になっている。また、テレビ局のロゴが見終えないように画面上部を切り取ってあるものもある。キャピタルヒルでの上映のため、またニュ―ヨーク映画祭参加のために英語吹き替え版や英語字幕版が作成されたと思われるが、未詳である。英語字幕版は、エミリヤ・ケギニャン氏によるドイツ語版に書きこまれたもの、トルコ人実業家シュクル・アヤ氏版があったが、現在は削除されている。また、AGHET1氏から投稿されているドイツ語版の4/7の部分に英語字幕をいれているファイルが残っているが、恐らくはこれも山猫アップロードであろう。アルメニア語版と数種類のロシア語版は、音声は一人の読み手による朗読となっているが、裏返しと切り詰めはないようである。IMD(インターネット・ムービー・データベース)のフィルモグラフィーでは、上映時間90分となっているが、ユーチューブで流布しているものは、独自の開設を加えてあるものもあり、これより3,4分長い。作品と監督は、ドイツ映画賞最優秀ドキュメンタリー作品(2010年)、アルミン・ヴェグナー人道賞(同年)、グリム賞(2011年)、ニュ―ヨーク映画祭ゴールドワールドメダル最優秀ドキュメンタリー作品などの評価を与えられている。
ストーリーの背景
第一次大戦の最中、オスマン帝国のアルメニア人臣民は大きな打撃を被った。1915年、オスマン政府は国家安全上の口実を設けて、首都コンスタンチノープルを始めとする大都市でアルメニア人社会各界の指導者を逮捕するとともに、歴史的アルメニアおよびその周辺諸地域を含む東部アナトリアに住む全アルメニア人のシリア砂漠の小都市デレゾルへの強制移住を断行した。輸送手段の劣悪さ、生活物資の不足に加え、経由地の住民と犯罪者集団に加えて、護送の任務に当たっていた官憲の不法な暴力に依って、多くの移送民が衰弱死や病死しただけでなく、多数が殺害され、女性と子供が拉致された。トルコにとってもまたアルメニアにとっても独立戦争であった 1918年から1923年の期間に最初の打撃を免れた多数の人々が死亡した。この間の事情は南極探検によって世界的に著名なナンセンらの救助活動によって世に知られることになった。この記憶は1970-80年代、トルコ政府に虐殺の事実を認知することを要求して欧米やオーストラリアでトルコ共和国政府関係者および施設に対するテロ活動を行った「アルメニア解放秘密軍」によってであった。1990年代以後、アルメニア共和国政府と在外アルメニア人諸団体は各国議会および政府に対して、1915年から1923年に渡るアルメニア人の大量死と国外避難をトルコ政府によるジェノサイドであると承認を要求する運動を行うようになった。2011年のフランス国民議会によるジェノサイド否定処罰法議決(法律としては不成立)とこれに不快感を抱いたトルコ政府による対仏経済制裁はまだ記憶に新しい。日本においても、藤野幸雄『悲劇のアルメニア』新潮社1991年、瀬川博義『忘れ去られたアルメニア人虐殺』三恵社2004年、中島偉晴『アルメニア人ジェノサイド』明石書店2007年などが出版され、1995年NHKで製作、放映された「映像の20世紀」ではジェノサイドとして紹介されており、某紙社説ではアルメニア人ジェノサイド問題にかかわるとトルコ政府の不興を買い、ビジネスに差し支えが生じるので、日本政府はこの問題に関わるべきではないと言う主張(2014年)がなされたぐらいであるから、日本の言論界でも既にアルメニア人虐殺の事実は知られており、しかも単なる虐殺ではなくジェノサイドの枠の中で議論されている。
ジェノサイド否認の潮流
この作品の中でもたびたび強調されているように、今日に至るまでトルコ共和国政府は一貫して、トルコにおけるジェノサイドの存在を否定している。トルコ国内を初め世界中のいたるところ、特にアメリカ合衆国に否定論の強い流れがある。その代表者は、スタンフォード・ショー(1930-2006年)プリンストン大学名誉教授、ギュンター・レヴィ(1923年生まれ)マサチューセッツ大学名誉教授、そして、バーナード・ルイス(1916年生まれ)プリンストン大学教授である。『オスマン帝国と近代トルコの歴史』の著者として令名高いショー教授は、同書中にアルメニア人は反乱を企てた結果国境地帯から除去されたが、オスマン政府は強制移住民保護のために万全の処置を講じたと記して、アルメニア人の怒りを買った人物である。ヴェトナム戦争の正当化をこころみる『ヴェトナムにおけるアメリカ』で有名になったレヴィ教授は歴史研究者ではなく政治学者であるが、アメリカにおけるネイテヴ・アメリカ人、ナチス・ドイツのロマ人、オスマン帝国のアルメニア人に関してジェノサイドの用語を用いることに反対し、ユダヤ人に対するホロコーストが唯一のジェノサイドであることを強調した。勿論、ホロコーストやジェノサイドという言葉が、ユダヤ人についてだけ用いられることはイスラエル政府に取って非常に好ましい。イスラエル政府は対外的にも国内的にもホロコーストを有効に利用しているからである。ジェノサイドという言葉は、日本人にとってはそれ自体意味の無い音の連続に過ぎないが、欧米人にとっては、重みのある言葉であり、一定地域の特定民族の追放や皆殺しがジェノサイドであるとするとパレスチナのアラブ人に対するシオニストの行動もまた、ジェノサイドであるかもしれないからである。ジェノサイドの使用をアルメニア人で食い止めておくのは非常に重要である。敵に言葉を与えるのは、武器を与えるのと同様であるからである。
バーナード=ルイス教授(プリンストン大学)教授は1916年イギリス生まれ、邦訳書に『アラブの歴史』(林武・山本元孝)、『暗殺教団』(加藤和秀訳)など数点があって日本でもよく読まれている著者である。ブッシュ政権の中東政策提言者であったことは良く知られているルイス教授は長く読み続けられている『近代トルコの出現』(邦訳なし)の初版(1961)、第2版(1968)でホロコーストとしたアルメニア人の虐殺を、第3版(2002)では否定した。これより早く、1985年には議会に対するアルメニア人虐殺をジェノサイドと認定することに反対する請願の共同署名者の一人に名を連ねた。更に1993年にフランスの新聞『ル・モンド』紙のインタビューに応じて(11月16日)「この歴史のアルメニア・バージョンを承認すると言いたいのですか?トルコには、ロシアの進出と独立を求めコーカサスからやって来たロシア人に対する共感を公然と表面したことによって引き起こされたアルメニア人問題がありました。またアルメニア人の武装集団がいました。レジスタンスの英雄的手柄を自慢するアルメニア人達です。トルコ人は確かに戦時体制化に秩序を維持するという問題を抱えていました。トルコ人にとって外国人の侵入に脅かされている地域で、信頼できない住民に対する懲罰と予防的処置ということに関わっていた。アルメニア人にとっては自分の国の独立に関わっていた。しかし、両陣営ともに迫害は地理的な限界があったことを認めている。例をあげれば、オスマン帝国の外のアルメニア人には影響は及ぼされなかった。恐ろしいことが起こったことには何の疑問も無い。多くのアルメニア人も、トルコ人も死亡した。しかし、疑いなく、正確な状況、詳細な犠牲者数は誰も知らない。常に展開するレバノンの戦争につい詳細や責任をはっきりさせることの難しさを考えてみて下さい。時間もなければ、世界の注目を集めているのです。シリアの移送の途中数十万のアルメニア人が渇きや寒さで死亡しましたが、ジェノサイドと言うからには政治的徹底がされていなければなりません。それはとても疑わしいことです。トルコの文書の文言には強制移住の意図はありましたが、抹殺の意図はありませんでした」(『ル・モンド』原文ではなく、「バーナード・ルイスに有罪判決」https://3w.voltairenet.org/article14133.htmlから引用)。同紙11月27日付けに掲載された反論を経て、ルイス教授がオスマン政府によるアルメニア人虐殺をジェノサイドと認定しなかった根拠は、1994年1月1日版で以下の5点に渡る。1、ヨーロッパの反ユダヤ主義に比べられるような、反アルメニア人運動はなかったこと。2、アルメニア人強制移住は、広範ではあっても全体ではなく、コンスタンチノープルとイズミルにおいては実施されなかったこと。3、アルメニア人の一部がロシア軍に加わっていたことは事実であること。4、臣民に対する強制移住自体はオスマン帝国ではしばしば行われており、大戦中にはヴァン地方のムスリム住民に対しても行われたこと。5、ヴァン地方ではアルメニア人志願兵によるムスリム虐殺が証言されていること。これらの記事の結果教授は民法382条(「誰であろうとも他人に損害を与えた者は、損害を蒙った者に賠償しなければならない」)を犯す行為をおこなったとして、在仏のアルメニア人団体および反セム主義団体より損害賠償請求を受け、1995年裁判で敗訴し、損害賠償各2フラン、判決記事掲載費用(2万フラン以下)、民事訴訟法第700条に基づく訴訟費用(1万フランと4千フラン)、および裁判費用の支払いを命じられた(1995年6月21日結審分)。
非常に不思議な事件である。『ル・モンド』は告訴の可能性を理解し、教授にその危険性を通告したのであろうか。もし、理解し通告しなかったのであれば、闇討ちである。もちろん、その可能性も大である。しかし、教授が告訴を覚悟、敗訴も想定して、インタビューに応じたのではないだろうか。そして、その目的は、アメリカ議会のアルメニア人ジェノサイド法案に対する共和党政権の態度をトルコ政府に対して明示することであったのではないであろうか。狐と狸の化かし合いの世界である。ルイス教授はアメリカ合衆国共和党政権の中東外交のブレーンであったので、教授の公的な場における発言は、個人的感想でも、学術研究の成果でもなく、トルコ政府に対する声かけである。アメリカ政府の中東政策にとって、トルコの協力が必要であることに関しては、疑問の余地はない。湾岸戦争の時に承認されたインジルリク空軍基地の使用が、イラク戦争、ISIL戦争には拒否されたことは、特にISILに対する空爆に一定の支障をもたらしていることは、周知の事実である。すると、ルイス教授のインタビューは、トルコが湾岸戦争に協力したお礼ということになるであろうか。ところが、30年に及ぶルイス教授らの労苦は報われず、エルドアン首相(当時)は、2014年6月12日、イスラエルはガザで組織的にパレスチナ人のジェノサイドを行っていると宣言する状況になった。
ところで、1915-1916年のアルメニア人虐殺について、ある日本人研究者(トルコ当局に対して余計な告げ口をすることになっては、迷惑をおかけするので、氏名は記さない。文章も改変してある)は「全体としてこの強制移住が『政策』として行われた」こと、更に「統一と進歩委員会」党の「『特別部隊』がこれを支援していたことは否定しがたく」、「疫病、飢餓を死因とする者を含めて、この強制移住による犠牲者を60万から80万と推測することに、大きな誤りはないように思える」。また「統一と進歩委員会」党は「大衆を動員するというまったく新しい手法を帝国の政治に導入することもしていた」などと事件をジェノサイドとする方向に向かっている。また、別の研究者(この方の氏名も記さない。文章も形を崩してある)によると、一般に同党のイデオローグと目されているズィア・ギョカルプは、口頭で、強制移住は「国家の敵を支援したアルメニア人の不忠によって必要となった」と陳述し、人間を個人としてではなく、全体の中の一部として考える全体主義思想を吐露している。従って、ルイス教授の主張には無理があるのであるのではないであろうか。因みに筆者の意見は、殺害あるいは衰弱死、誘拐された婦女子、行方不明者の総数はともあれ、政府自身の計画によって、1915-6年に広大な歴史的地域(西アルメニア、アルメニア6州)の特定民族の人口がほとんどゼロになったという事態は、定義に照らしてジェノサイドであったと判断していいであろう。
作品の特徴
この映画の特徴の一つに作品名の付け方を挙げてもいいであろう。アゲットは確かにアルメニア語でカタストロフィ(演劇の悲劇的結末、破局)のことだが、最近までは、アルメニア人ジェノサイドに対して、アルメニア人は「アルメニア人ジェノサイド」、「アルメニア人殺し」、「大量虐殺」などの用語が用いられて来た。特に、1915-1916(あるいは、1915-1923)年の大量殺害に対して、「アヘット」と呼ぶことはなかった。ユダヤ人に対して用いられる言葉「ホロコースト」はギリシャ語起源で、1978年以前はナチのユダヤ人虐殺を指して用いられるのはまれであったので、比較的新しい用法で、映画作品がきっかけであるといわれる。日本ではナチのユダヤ人虐殺以外には使われていないが、アメリカ合衆国でもユダヤ人団体は、ユダヤ人以外の下のサイドにこの言葉を用いることに反対していると言われる。年毎に過去の思い出になるユダヤ人虐殺が次々と起こる新たな虐殺の中で埋没しない為であろう。ただしホロコーストの用語を嫌い、ショアーの言葉を選ぶ人々もいる。どちらの呼称を採用してもナチのユダヤ人虐殺は、排他的な名称を確保することで、より明確にそのイメージを強化保存することができたのである。もしその言葉を独占しきればだが。アピールとプロパガンダのために、まず言葉を投げかけることは効果的である。同様な言葉を確保したのはパレスチナ人で、広河隆一氏の記録映画『パレスチナ1948ーNAKBA』(2007年)も言葉の重要性を理解した作品名だと思われる。アヘットという言葉が、アルメニア人ジェノサイドの別名として国際的に広く使われるかどうかは、アルメニア人自身の戦略による。
この作品の構成は、導入部、本章、終結部からなる。導入部ではジェノサイド否定論を巡る動向をテレビニュースと恐らく独自のインタビューで構成する。本論はジェノサイドの開始とその終結、終戦後のアルメニア人孤児保護、ジェノサイドの責任問題と国連ジェノサイド法締結までの事情、終結部はアメリカ議会におけるアルメニア人ジェノサイドを巡る動きである。序論と結論部はテレビニュースとインタビューを組み合わせてあり、通常のドキュメタリーあるいはニュース報道の手法を用いている。本体部は、刊行された文献や公文書など種々の目撃者証言をその目撃者に扮した俳優が、あたかもインタビューに答えるように、あるいは独白するように陳述している。登場人物は2名のアルメニア人生存者を除くと現地にいた欧米人の目撃者と外交官である。主要証言者の配役は本論の始めに提示される。また、証言と証言の間には、当時のものと考えられる写真や映画が配置される。ほとんどは途上人物とは直接関係がない。無声である。配役は役柄を考慮して決定されたものと思われ、出演者は全員椅子に着席して台詞を語っているが、文章を朗読するのではなく、その範囲で十分に演技を行っている。一方、証言記録のテキストの在処は全く示されていない。典拠はドイツ語版ウィキペディア("AghetーEin Völkermord")に掲載されているが、台詞が文字通りの引用であるか、文意を汲んだ翻案であるかは知ることができない。フィルモグラフィーによると台本作者は監督のエリック・フリードラーであるが、その為の資料を収集したのは、カタリナ・トレビッチとマルクス・トレビッチであった。彼ら自身は歴史家でもジャーナリストでもない。史料読解能力は未知数であろう。見る者は、証言記録の真偽を俳優の好みと演技力に依らなくてはならない。すなわち、この作品はドキュメンタリーと言うよりは、ある種の文芸映画であると言えないであろうか。誰が、『坂之上の雲』で明治を知ろうとするであろうか。すなわち。『アヘットーあるジェノサイド』は、単なる事実以上のことを主張しようとしているのである。概して現場の目撃者の証言は、1910-1920年代に公刊されたよく知られているものである。ここで、ひとつ問題があるのは、モーゲンソー大使の発言で、ここでも資料とされている回顧録は、大使自著ではなくゴーストライター(伝記作家でピューリッツァ賞受賞者バートン・ヘンドリック)によるものである。しかもこの回顧録の第一次大戦開始の状況を巡る記述のある部分は、有効性が疑問視されている。一方、ドイツ外交官の文書は古くから知られているものと、近年公開されたもの混ざり合っているようだ。
映像についても同様の問題がある。使用した写真と映画の出所来歴はまったく示されていない。よく知られているものも多いが、出自の明確でない映像には証言能力は認められないのである。また、ストーリーとは直接関係のない映像も認められる。その例は、45分台で避難民が石の橋を渡っている場面がある。子供達は馬に乗っており、牛舎には家財道具が運ばれている。彼らはヴァンからロシア領へ避難する人々であって、強制移住者ではないのである。また、映像の中には映画の一駒を思わせるものも含まれている。個々の映像の出所をはっきりさせないと、1919年にハリウッドで製作されたといわれる映画が紛れ込むことを防ぐことができないだろう。
従って、この作品は何かを始めから一つ一つ証明する者ではなく、表現されている内容に違和感を抱かない人々が、自分の意識の確認の為に見るべきもの、つまり、文芸映画やあるいは、真偽を問わない歴史の共有のための物語のようなものである。勿論、このような評価は、ジェノサイド自体の評価とは異なるが、監督自身は「証明された」歴史を表現したのであるとのでた。一方、監督はこの作品は誰に向かっているかという質問に対して、「ターゲットとする観客はない」と答えている。しかし、アルメニア人やトルコ人に訴えるためにドイツ語で、登場人物も大多数もドイツ人の脚本をかくであろうか、上の質問にそって答えるならば、フリードラー監督は、誰にでもなく、ドイツ人に対してこの作品を突きつけたのではないであろうか。
内容の紹介
以下は、『カタストロフィー』の内容の紹介である。テキストは主として英語版を聞き取ったものであるが、聞き取りにくい箇所はその他の版にも頼った。また、シュクル・アヤ氏の英語テキスト、無名氏の1/7、4/7の字幕も参照した。ただし、これらの字幕とテキストは英語版を聞きおろしたものではないテキストではない。なお、文中の部章は便宜上、筆者が挿入したものである。裏表のない英語版を見つけることができなかったので、下にドイツ語版、フランス語版をそれぞれ、ひとつずつ挙げた。
ドイツ語 https://www.vesh.com/watch/v2000163164232gHy(多くの英語版の原稿になった放映)
フランス語 https://youtube/watch?v=WjX3J-OWR5K
注意 本論の後半には、非常に沢山の死体、死体の一部等の映像があるので、不注意に視聴して、トラウマにならないようにしてください。
第1部
序
0:00 (トルコ共和国副首相ジェミル・チチェク)
トルコ人は、アルメニア人の身に起こったことが、ジェノサイドではないことを堅く信じていると強調したいと思います。
ナレーション
彼らは事実を90年間も否定しているが、このような時代錯誤は、ショッキングです。
0:26
(アダム・B・シット)
ダルフール、カンボジア、ルワンダ、ホロコーストをジェノサイドとして認識しているならば、なぜアルメニア人のジェノサイドを認定しないのか。
0:38
ニュース
ノーベル賞作家のオルハン・パムクが単に今日トルコでは討論が必要であると言っただけで、投獄3年のリスクを冒していると言うのは信じられないことです。
00:53(ベルナール=アンリ・レヴィ)
彼らが否定論者であり。彼らが過去を隠そうとしている。彼らが嘘を言っている。
1:09
(ジェム・オズデミル)
これはトルコ政治の重要なタブーです。政権は国民が何が起こったかを知るのを恐れています。
1:23
(レジェプ・タイイプ・エルドアントルコ共和国首相)
ジェノサイドという認識は我々の社会にはない。我々の社会と文化、我々はジェノサイドを犯していない。我々は決してこのような非難を受け入れることはない。
1:33
(アメリカ合衆国オバマ上院議員)
否定している人に対しては、アルメニア人のジェノサイドはあったと申し上げます。
ナレーション
アメリカ議会に置ける討論に置いて、ブッシュ大統領自身があらゆる手段を使って重要な同盟国を守りました。
ナレーション
一外国、我々の最も重要な同盟国の一つが、昨日、キャピタルヒルで起こったことに不快感を示しました。
1:47
(ロバート・メネンデズ)
長年の同盟国が望まないと言うただそれだけの為に、アルメニア人のジェノサイドを認めないと言うことには、偽善を感じました。
ナレーション
ホワイトハウスは議会で起こったことに対するトルコの反応がイラクの不安定に拍車をかけることを懸念しています。
2:13
(タイトル)
アゲット
ジェノサイド(民族皆殺し)
2:19
ニュース
トルコのアルメニア人社会の中で影響力のあるフラント・ディンクは、自分の新聞社があるビルの入り口で銃を持った男に殺されました。
ナレーション
2007年1月19日、トルコのアルメニア人ジャーナリストであるフラント・ディンクは、白昼イスタンブルで射殺されました。犯人は17歳のトルコ人で、理由は、犯人によるとトルコ人の名誉を汚したということでした。今日に至るまで判決は出ていません。
3:12
アイディン・エンギン
過去数年間に沈黙の壁に亀裂が生じてきました。トルコではパンドラの箱が開きました。フラント・ディンクが立ち上がって、これはジェノサイドだったと発言しているのです
3:16
ナレーション
95年以上もトルコはジェノサイドを否定してきました。まだ、今でもトルコではこれについて発言するだけでも犯罪です。フラント・ディンクや他の大勢の人々が何度も告訴されました。しかし、彼の望んだことはトルコの人々に過去、トルコのアルメニア人100万人のジェノサイドと向き合ってほしいということが全てでした。これは普通のトルコ人はほとんど知らない犯罪でした。
3:38
デラル・ディンク フラント・ディンクの娘
父はよく、彼らは事実を知っていてそれを否定しているのではないと言っていました。彼らは自分の知らない何かを否定しているのです。それが起こったことの始まりです。彼は常々、政治家が行ったことの責任を認めることは望まない。あらゆる人々に誰がどのようにしてそれを行ったかを知ることを望んでいる。それがまた起こって欲しくないって。
ナレーション
ディンク殺害の後、人々はどんどん、公認トルコ史に疑問を持つようになった。それはとても単純なもので、ジェノサイドはなかったというものだった。これは今でも広く真実であると受け取られている。フラント・ディンクは公式否定論の1世紀と戦っていたのである。
4:25
ジェミル・チチェク トルコ共和国副首相
ジェノサイドと言えば、トルコ人に対する最大の弾劾である。我々トルコ人は決してそれを受け入れない。我々の観点からすれば、我々の過去は実にきれいなものだ。誰も我々がそんなことをできるとは考えない。
ナレーション
この意見はヨーロッパ中に住むトルコ人にも共有されている。近年、フランス、スイス、スエーデン等のヨーロッパ多くの諸国の議会は、アルメニア人ジェノサイドの認定を行っている。トルコ人の多くは、これに依って個人的に攻撃されていると感じている。ドイツでは彼らはジェノサイドを承認しようとす
るどのような試みに対しても、これはタブーであると主張してデモをしかける。トルコは過去を見つめよ、と言う主張はこれ以上無視することはできない。
5:23
ジェム・オズデミル、アライアンス90/緑の党議長
この歩みはトルコでも確かに感じられている。トルコはかれらの歴史の解釈を根底から変更する必要に迫られている。私は彼らに知ってもらいたいのです。私はこれがトルコのどのテレビのチャンネル、新聞、あらゆる場所でも討議されるようになって欲しいのです。そうすれば、トルコは結果的に、そうです、これはジェノサイドですが、ジェノサイドに直面するでしょう。我々はこの事実を無視していました。
5:39
ナレーション
今のところ、トルコは譲歩をしていません。重要な交易相手国、中東への架け橋であるトルコに対し、リスクをおかさないのは戦略的には非常に重要です。NATOの指導国にとっての先見事項は、トルコはNATOの重要な同盟国であるということです。
6:06
マルクス・マルケル 2009年までSPD外交政策スポークスマン
同盟の維持は非常に重要なことです、しかし、我々が求めることは価値の共有に基づいた同盟です。そうであれば、我々は真実に対して沈黙することができません。なされたことはあまりにも少なく、明白に言われていることもあまりにも少ないのです。人々は自分がしっていることについて沈黙しています。なぜならば、基本的にヨーロッパではこれがジェノサイドであると知らない人はいないからです。
6:30
ナレーション
トルコはジェノサイドを否定するように指揮をとっています、指導者達は議論を妨げるために国の地政学的重要性を使っています。外交関係停止や武器取引契約破棄をもちだすと、その度に西欧は引っ込んでしまいますが、その時アルメニア人の被害者や子孫は、無駄に真実の公的承認を待っているのです。
6:55
サマンサ・パウアー オバマ大統領外交顧問
あなた方はあなた方の話をしています。しかし、あなた方はトルコ政府やトルコ国民からだけでなく、アメリカ政府やほかの西欧の政府から、とても昔におこったことを記憶していると言われます。自分が生存者であると感じて下さい。あなた方がジェノサイドについての記憶を語ると、それは事実ではない、そんなことは起こらなかった。あるいは、あなた方の話はあまりにも主観的だ、それはあまりにも感情的だ、不正確だといわれるとしたら。これは二重状態です。
7:33
ナレーション
毎年、4月24日、数十万のアルメニア人が世界の各地からアルメニアの首都イェレヴァンに巡礼します。ここでは人々は、彼らの祖先が国民であった、そして大量殺害が行われた国、トルコの国境から遠からぬ犠牲者慰霊碑の前で祈ります。1915年4月24日から、アルメニア人の絶滅が始まったのです。ローマより早く世界で最も古いキリスト教民族アルメニア人は、ジェノサイドをアヘットと呼びますが、文字通りには、カタストロフィーという意味です。
8:15
アルトゥール・アブラハム アルメニア人の世界ボクシング・チャンピオン
人間は事実を認めなくてはなりません。トルコもこれを認める為に何かしなくてはなりません。これはとても悲しい感覚です。私は家族の誰かが死んだような気持ちがします。特に危害を加えられた女、子供に写真を見る時です。ジェノサイドは認められなくてはなりません。これは我々にはとても重いことです。私は試合のあと、試合を死んだ人に捧げますと言いました。4月24日に死んだ人にです。
9:20
ナレーション
世界中に散らばった500万人のアルメニア人の中の300万人のアルメニア人がこの小さな国に住んでいます。彼らは悲しみと怒りが混じった感情を抱いています。彼らはなぜ未だにトルコは起こったことを認めないか理解できず、トルコ・ヴァージョンの歴史を受け入れている世界から裏切られ、見捨てられたように感じています。
10:11
レジェプ・タイイプ・エルドアン、トルコ共和国首相(当時)
キリスト教徒の虐殺、アルメニア人の虐殺等と言うが、彼らはどんな根拠があってこの醜悪な非難をするんだ。証拠もなしに1915年にトルコがそんな虐殺を行ったという。トルコ人に対してこのような醜悪な要求は絶対に受け入れられない。どんなに頻繁にこの要求をしようとも、我々はけしてこれを受け入れない。なぜならば、これは起こっていないからである。証拠があるのであれば、必要とあらば、トルコは受け入れよう。
10:40
ナレーション
ベルリンではドイツ外務書の文書館の中に、数千の報告、書簡、ノート類が積まれている。第一次大戦のトルコの同盟国であったドイツ帝国によって、かつて分類され綴じ込まれた書類は、トルコを守る為に数十年の間手に取られることがなかった。これらの記録は疑いなく、我々を本当に起こったことに導く。また、アメリカとドイツの外交官の報告書があり、前世紀の始めにトルコに住んでいて、見たことを記録したスイス、デンマーク、スエーデン人の医師、布教会の教師、看護婦、ジャーナリストの目撃記録がある。ノートや報告書は時を経て黄ばみ、著者達は何十年も前に死亡しているが、今、事件の95年後、再び彼らの証言を聞くことができる。俳優達が彼らの声を初めて語らせる。
第2部 アルメニア・ジェノサイドの証言 1 配役
11:55
ハンス・ツィシェラー、レスリー・A・デイヴィス(アメリカ合衆国領事)役
謹んで、大使館にかってどのような政府も行わなかった野蛮な処置、我々の歴史の最大の悲劇について報告いたします。
12:10
フリードリッヒ・フォン・トゥーン、ヘンリー・モーゲンソー(アメリカ大使)役
これらの人々はほとんど無警告に故郷から引き離されて、砂漠に向かって出発した。男だけでなく、数千の子供と女性が、強いられた旅行の途中で死亡した。飢餓と疲労によってだけではなく、護送員によって残酷に殺された。
12:49
マルティン・ゲデック、アルマ・ヨーハンソン(スウェーデン布教団修道女)役
起こったことを見ていながら何もできず、自分だけが生きながらえるとういうことが何か理解できますか?
12:50
カタリーナ・シュットラー、ベアトリス・ローマー(スイス救済機関オルガナイザー)役
彼らは飢餓のため何百人と死亡しました。それに続いて数千人が熱病で死にました。至るところに浮浪者と孤児があふれていました。
13:05
ナレーター
長い間無視されていた目撃証言は、ベルリンでまとめられた報告と同じく、アメリカ、フランス、デンマーク、スエーデン、アルメニアの外交および軍事公文書館に見いだすことができる。これらもまたアルメニア人ジェノサイドを詳細に至るまでまで、恐怖の支配として記述している。犯罪について記したこれらの報告、文書、日付を追った書き付けは、あまりにも大量なので、ほとんど人間の掌握力を超えている。
13・47
レスリー・デヴィス、在ハルプート、アメリカ領事、1914-1917
アルメニア民族を民族として破壊する計画であったことは秘密では無い。状況は私が思ったよりも、効果的ではなかったとしても、一層冷酷であり野蛮であった。あらゆる方向、至る道路に死体があった。国中が死体置き場、もっと正確に言えば屠殺場だった。ビッコを引いた、目も見えない、病んだ70歳、80歳の男女、罪の無い女子供、頑是無い赤ん坊が、殺されるか死ぬのを待つばかりの有様であった。道路では実際に死んだか、死につつある人々が見られた。全く何の正当化もできない。
15:18
アルミン・ワグナー
駐土ドイツ衛生部隊将校、1915-1916年
トルコの人々の全体をアルメニア人ジェノサイドの実行犯と批判することはできない。この犯罪を望んだ人は、ほとんどいないし、知ることも、見逃すことも、評価する人もほとんどいなかった。小アジアのドイツ領事の公式報告はそれを首都の政府の命令を拒否したトルコ人地方官吏の数はけして少なくなかったとまとめている。
15:50
第2部 アルメニア人ジェノサイドの証言 2 強制移住の開始
16世紀、コンスタンチノープルを首都とするオスマン帝国は、諸大陸にまたがって広がっていた。アルメニア人はペルシャ、ロシア、オスマン帝国に分かれて住んでいた。オスマン帝国では、アルメニア人は小アジア東部の6州に住んでいた。20世紀始めトルコには2百万人のアルメニア人が住んでいた。ムスリム諸国ではキリスト教徒として彼らは他の宗教的マイノリテリーと同じく、一定の宗教的文化的自治を持っていた。しかし、彼らは特別の税金を払い、しばしば差別を被っていた。彼らはある程度の自治を持ってはいたが、法的にはムスリムと同じではなく、二等国民として扱われていた。アルメニア人は自分たちの低い地位について苦情を述べ、政治的社会的平等を求めたが無駄であった。彼らの大部分は商人、農民、職人であったが、しかし都市では、豊かな中流アルメニア人階層が出現した。
17:05
オスカー・ヘイザー、トラブゾン駐在アメリカ領事、1915-1917
彼らの一部は富んだ特別の家柄の出身で、富と贅沢になれていた。彼らはあらゆる種類の人々、聖職者、商人、銀行家、法律家、商人、技術者、労働者であった。平等な社会の一員になることができると言う沢山の約束にも関わらず、彼らは何度も当局の支持と承認によって行われたポグロムの犠牲になった。彼らを黙らせる為の政府が組織した暴力である。1895年には高い税金に抗議し、平等を求めたと言う理由で20万人が殺された。1908年、トルコで革命が起こった。ヨーロッパ人から青年トルコ人と呼ばれていた亡命していた陸軍の将校と自由主義者は、権力を握り、再び少数民族にも平等を約束した。しかし、実際には、彼らはとても違った目標を持ってもいた。
17:53
サミュエル・S・マックルア、コンスタンチノープル、在住アメリカ人通信員、1915-1916
この小集団は1908年に成功するとトルコを支配するマイノリテリーを略奪しようという新しい思想がうまれた。それは「トルコ人の為のトルコ」だった。この思想は頭が熱くなった熱狂的な大衆の民族感情を満足させたが、宗教的ファナチシズムの結果ではなかった。政府は根本的には利権と権力に興味を持っていた。
16:20
ナレーション
この新しい政党は統一と進歩委員会と呼ばれていた。年老いたスルタンは退位させられ、弟が替わり、立憲王制の長となった。青年トルコ人は人種的に純粋な帝国を創造することを望み、ムスリム世界から異教徒の支配を一掃する意図を宣言した。かっては強大であったオスマン帝国は1912年のバルカン戦争でキリスト教地域が更に失われたので、ひどく弱体化した。屈辱から自分の国に住んでいるキリスト教徒をも非難した。3人の高位の将軍(トルコ語ではパシャ)による三頭政治が現れた。エンヴェル・パシャは戦争大臣、ジェマル・パシャ海軍大臣、最後であるが重要、全権を持った内務大臣で後に政府首班になったタラート・パシャ。
19:20
ハリー・シュチューマー、コルニシュ・ザイトゥング紙コンスタンチノープル通信員、1915-1917
彼はかなり貧しい家庭の出身で、まずアドリアノープルで郵便配達夫になり、次に別の部局で空席になった電信技士になりました。それ自体は悪いことではありません。それどころか、彼の熱意と知識を示しています。彼の高い知的能力はしかし、典型的なトルコ人の畝惚れと最も狭いショーヴィニストの幻想を免れることはできませんでした。彼はあたかも民族差別の熱狂的欲望に毒されたようでした。
20:00
サミュエル・S・マックレア、コンスタンチノープル在住アメリカ人通信員1915-1916
私の印象はその当時も今も、タラート・パシャはトルコの絶対的独裁者であったということです。私は2度インタビューをしたが、彼は強く、エネルギシュでアメリカの政党の顔役の一人のようであった。もし、アメリカのボスだったら彼はボスの王様という所でしょう。彼は生まれながらの指導者であった。私は大戦中、列強の全政治的指導者と会見したが、彼はベルリンと地獄の間の最も強い男だった。
20:35
ナレーション
第一次大戦、1914年 トルコは東部ではロシア軍の侵入に抵抗しなければならず、同時にイギリス軍からダルダネス海峡を防衛しなければならなかった。トルコはキリスト教ヨーロッパに包囲され脅されているように感じていた。例外はドイツで、トルコの同盟国であった。
20:56
トレーシー・アチキンソン、ハルプートのアメリカ布教団員、1902-1917
ドイツ人、トルコ人、悪魔は三者同盟の約束をした。
21:03
ナレーション
コンスタンチノープルの公式レセプションにおけるドイツ皇帝、その右側に戦争大臣エンヴェル・パシャ。ヨーロッパ列強と競争して、ドイツはオスマン帝国を同盟に誘った。交換にドイツはオスマン軍の近代化を申し出た。国の古い力と栄光を取り戻すことが期待された。アルメニア人弾圧はドイツ人にとっては意味のある話題ではなかったが、同盟国との軍事的経済的利害をそこなうような紛争は許されることではなかった。
21:40
ハリー・シュチューマー、コルニシュ・ザイトゥング紙コンスタンチノープル通信員、1915-1917
先ず、ドイツの行動は疑うこと無く、臆病であった。経済的政治的には勿論軍事的にも我々はトルコを掌握していた。もし我々が望めば、人間性の原則の遵守を主張することができたはずである。エンヴェル・パシャも、さらに内相で事実上独裁者のタラート・パシャも、ドイツに無条件に従う以外の選択をすることはできなかった。疑うことなしに彼らはアルメニア人問題に関するドイツのどんな処置にも従ったであろう。
22:15
ラファエル・レムキン、法律家、ジェノサイド研究者、1900-1959
トルコ政府は同盟国のドイツはアルメニア人追放に懲罰的手段はこうじないだろうと計算していた。一つの可能性はドイツが戦争に勝って、同盟国のトルコをロシアと西欧諸国の報復から守ってくれるかも知れないということである。そこで、この犯罪は組織的に実行された。
22:40
ナレーション
1914年の冬、ロシア軍はトルコ領アルメニア地域に入った。アルメニア人兵士はどちらの側にもいた。エンヴェル・パシャは自らコーカサスで迎撃軍を指揮した。作戦はトルコ軍の壊滅的損失に終わった。数週間の内に9万人のトルコ兵が戦死した。そこで青年トルコ党政府がスケープゲートに選んだのがアルメニアとロシアの陰謀説で、キリスト教徒住民をおびえさせた。彼らの心中、これれが唯一可能な敗戦の説明であった。トルコ人はやっとアルメニア人全体を敵であると断罪する機会を見つけた。
23:25
ヤーコブ・キュンツラー、ウルファの教会執事兼医療スタッフ、1899-1922
疑い無く、彼らは戦争を利用した。アメリカ合衆国を除く西欧諸国は敵であったのでトルコに何の影響力を行使できなかった。誰にもアルメニア人問題を取り扱う時間がなかったし、時間を見つけることもできなかった。
23:49
ナレーション
青年トルコ党は軍隊のアルメニア人兵士は、ロシア側に味方して、背後からトルコ軍を攻撃したという噂を流した。「だまし討ち」の物語は破滅的結果をもたらした。その理由で数千のアルメニア人が逮捕され拷問を受け、殺された。
24:10
ハリー・スチューマー、コルニシュ・ザイトゥング紙通信員、コンスタンチノープル1915ー1917
アルメニア人の組織的抹殺は、このような策略を使わなければ不可能だった。トルコ政府は巧みに世界の世論を操作し、地方における陰謀を発見、いや、捏造した。
24:20
ヨハンネス・レピスィウス、アルメニア救済協会マネージャー、1896-1926
ヴァン市の知事は、エンヴェル・パシャの義理の兄弟であったが、市内のアルメニア人地区を武装攻撃した。アルメニア人は近づきつつあった虐殺から家族を守るために、地区に立てこもった。彼らはロシアとは関わりがなかった。彼らは、地区を包囲し砲撃したトルコ正規軍から、4週間の間、自分たちを守った。
24:50
ナレーション
ロシア軍との戦闘の混乱の中、トルコ軍は反乱を鎮圧するという口実でヴァンのアルメニア人住民を攻撃した。アルメニア人は激しく抵抗して、数千人が死亡した。ロシア軍がトルコ軍を破ってヴァンに入城したので、戦闘は終わった。トルコ人にとっては、ロシアとアルメニアの陰謀のもう一つの証拠であった。
25:10
マルティン・ニーパーガ、アレッポ・ドイツ学校教員1913-1916
彼らは一万人の人間を殺す為に、女子供に対して野蛮な扱いを正当化する為に誰か一人が疑わしいという戯けた口実を使ったのです。
25:20
ヴァルター・ロースラー、ドイツ、アレッポ領事、1910-1918
トルコはドイツの同盟国だったので、これに反対することは適当ではありませんでした。
ナレーション
他方、同盟国のドイツは反対をしてもうまく行かないと判断しました。強制移住が始まります。公式の口実はロシアと接する東部国境の安全確保です。当局は、アルメニア人が当時オスマン領であったシリアに新しい故郷を見いだすであろうと述べたが、これは嘘である。最初のアルメニア人家族が、確実に死の道へ送られた。トルコ政府は、この間、全アルメニア人を滅ぼそうと計画していた。
25:55
ハリー・シュチューマー、ケルン新聞、コンスタンチノープル通信員、1915-1917
この件では当然、戦闘地域からの退去遂行という口実を使うことができなかった。というのは大部分の人々は東部戦線からもダーダネスからも数百マイルも離れたところに住んでいたからである。彼らはこの為には別の口実を作り出さなければならなかった。これが、突然彼らが、奇跡のようにあらゆるアルメニア人の全帝国に対する広汎な陰謀を発見した理由である。
26:23
ナレーション
当局は,トルコ人の激情をあおった。彼らは軍事的敗北を避ける唯一の方法は、今、全国でアルメニア人の脅威を根絶することが必要であると主張した。具体的にアルメニア人と名指しではない新しい強制移住法が制定され、地方軍指令官にスパイあるいは陰謀の疑いのある都市や村の住民の移住を義務付けられた。
26:55
アルマ・ヨーハンソン、在ムーシュ、スエーデン布教団修道女、1901-1915
聖戦が宣言されるとデモや熱烈な公共の場での発言が行われた。「我々はキリスト教徒と戦っているのであるから、我々は国からキリスト教徒を根絶しなければならない」。トルコ人はロシア軍がムーシュや更に内部に到達すると思っていました。しかし、彼らは言っていました。そうなる前に我々はアルメニア人を殺してしまうだろう。その後で彼らは来ることができる。
27:20
ハリー・シュチュルマー、ケルン新聞、コンスタンチノープル通信員、1915-1917
コンスタンチノープルの逮捕は4月24-25日に始まった。10人の司教40人の医師、10人の法律家、グリゴリアン派信者、プロテスタント信者、カトリック信者を含む850人が追放されたが、中流下層や労働者階層の人々も含まれていた。アルメニア人問題を公然と発言するトルコ人は非常に少なかった。洗練された教養ある人々でさえ混乱しており、大抵の発言は、アルメニア人はみな同じだ。全てのアルメニア人は根絶しなければならない、彼らは裏切り者であると言う言葉で結ばれた。
28:25
ヴァルター・ロースラー ドイツ、アレッポ領事、1910-1918
トルコ政府は、これに対してなんと答えなければならないか?引用しましょう。 「オスマン政府はトルコに住む平和を愛する正直なキリスト教徒に対しては無期限に恩恵的保護を広げると宣言した」。私はこの宣言が発布された時、自分の目を信じることができなかった、今日まで、このような記念碑的嘘を述べる見つけることができない。トルコ政府は、起きたこと全てに対して全て責任がある。否定しても無駄である。政府はこの状況を準備し、アルメニア人を追い立てのだ。
29:14
ヘンリー・モーゲンソー、駐コンスタンチノープルアメリカ大使、1915-1917
警察は突然アルメニア人に襲いかかった、ヴェスヴィウス山がポンペイに噴火したように。女性たちは洗い場から引き立てられ、子供達はベットから引き立てられ、パンは釜の中で半分焼けたままで残り、食事はテーブルの上に食べかけで。子供達は読みかけの教科書を開いたまま学校から連れ出され、男達は畑に鋤をおいたまま、家畜は山腹で草を食ませるまま、行かされた。これらの人々は前もってほとんど何の警告もされないままに連れ出された。
30:18
アルマ・ヨーハンソン、在ムーシュ、スエーデン布教団修道女、1901-1915
アルメニア人の男達は逮捕され家畜用の柵の中に閉じ込められた。彼らは馬の様に足に蹄鉄を打たれ、睫毛、指の爪、歯が引き抜かれ、足を縛って吊るされました。他にも同様なことがありました。勿論、大勢が死亡しましたが、布教団で治療ができた人もいました。これは傷の状態からわかったことです。
31:05
レスリー・デヴィス、在ハルプート、アメリカ領事、1914-1917
数日の間はこの噂がかわされていましたが、まったく信じられないことでした。1915年6月27日土曜日、アルメニア人は全員5日後に退去という命令が伝わりました。その意味は、孤立した地域の人々の状況に詳しくない人々には全く想像できないことでありました。大量殺害と聞けば過酷に聞こえるが、大量殺害であれば逃げることができるものもいる。しかし、総追放であればこのような国では、精神的な重圧はさらに恐ろしいものです。
3231
ハンバルツーム・サハキアン、生存者、1908年シヴァス生まれ
町の触れ役がアルメニア人の強制移住を伝えると、トルコ人の警察がやって来て、男はこっち側、女はあちらと命令しました。人々は羊の様に従い、警官は私たちの家や土地の中を探しまわりました。
32:45
マルティン・ニーパーガ、アレッポ、ドイツ学校教諭、1913-1916
大勢のムスリムのトルコ人とアラブ人もこれに不満で、首を振っていました。涙をかくすことができませんでした。彼らは自分たちの政府がこのような残虐な行為を行うとは信じられませんでした。
33:18
オスカー・ヘイザー、トラブゾン駐在アメリカ領事、1915-1917
トラブゾンのアルメニア人の家は空っぽになり、人々は送り出されました。誰が政府に対する反対の罪に有罪かの取り調べはありませんでした。アルメニア人であっただけで犯罪者であると判断されて、立ち退かされました。
33:26
ナレーション
1915年5月24日、イギリス、フランス、ロシアはオスマン帝国でおこっている事件は人道に対する犯罪であると宣言した。この言葉はここで初めて使われた。当時まだトルコに対する戦争に中立であったアメリカの代表がトルコ政府の蛮行に抗議するためにタラート・パシャに面会した。
34:15
ヘンリー・モーゲンソー、駐コンスタンチノープルアメリカ大使、1915-1917
儀礼的挨拶のあと我々は着席して、本題に入った。タラート・パシャは全アルメニア人臣民に関する我々の立場はと言って、3点に渡って説明を始めました。第一に、アルメニア人はトルコ人の犠牲の上で、富んでいるいることです。第二に、彼らは独立の国家を樹立しようとしています。第三に彼らは我々の敵を援助しています。彼らはコーカサスでロシアを援助し、我々の敗北は概ね彼らの行動で説明がつきます。こういう訳で、我々は戦争終結までに彼らを無力化することを決心したのです。
35:12
レスリー・デヴィス、在ハルプート、アメリカ領事、1914-1917
これは全アルメニア人の強制移住以下ではありません。この州だけではなく、アルメニアを構成するほぼ全州が対象になっています。恐らく我々の歴史でこのたぐいのことが行われたことはありません。
35:34
ヨーハン・モルトマン、ドイツ、コンスタンチノープル総領事(1915-1917年)
タラート・パシャに近い筋の人物が小アジアの地図を手に私に確認したところでは、アルメニア人強制移住は範囲を一層拡大されます。トルコ政府はアルメニア人の強制移住を強化しました。ジャニック、トラブゾン、シヴァス、マムラトアルアッジーズのアルメニア人もメソポタミアに強制移住させられました。軍事的予防措置の理由から正当化することはできません。タラート・パシャが私に断言したのは、この目的はアルメニア人の絶滅でした。
36:29
ヘンリー・モーゲンソー、駐コンスタンチノープルアメリカ大使、1915-1917
少数のアルメニア人がタラート・パシャを裏切ったとしても、これが全民族を滅ぼす理由であろうか、これが無辜の女子供を苦しめる口実であろうか。そのようなことは、けして行われはしなかったのだ。
37:28
オスカー・ヘイザー、駐トラブゾン、アメリカ領事、1915-1917
女子供の泣き叫ぶ声には、心がつぶれる思いがした。ドイツ領事が私に言ったが、アルメニア人が戦争の後であれトラブゾンに帰還を許されるとは信じられないと言った。
37:48
ヤーコブ・キュンツラー、ウルファの教会執事兼医療従事者、1899-1922年
青年トルコ党にとってもアルメニア人を殺し尽くすこと、100万人を絶滅させる為に移送することは簡単なことではなかった。強制移住は一年間続いた。
レスリー・デヴィス、在ハルプート、アメリカ領事、1914-1917、
強制移住の命令がされたときのパニックの状態をどういう風に表現していいか分かりません。出発しなければならなかった人々は、旅のためになにがしかの金を身につけて行こうとしていました。トルコ人は勿論、これにつけ込んで、ただ同然に持ち去りました。盗みと略奪が大規模に行われ、トルコ人の男、トルコ人の女がただ同様で持ち去ろうとアルメニア人の家に押し掛けました。この有様は私には猛禽類が路傍に横たわる獲物に襲いかかる様に思えました。アルメニア人は確実な死の道を行く様に思えたが、確かにその理由がありました。
オスカー・ヘイザー、駐トラブゾン、アメリカ領事、1915-1917
家具、寝具、その他高価なものは町の大きな建物に運び込まれました。仕分けのこころみは全くされていませんでした。帰還後に財産を持ち主に返す為に政府に依って、帰還に際してとは全く笑止千万でした。家財は組織的に保管する作業なしに山積みにされていました。
39:50
ヘンリー・モーゲンソー駐コンスタンチノープルアメリカ大使、1915-1917
実のところトルコ人にはアルメニア人を新しいくにに定着させる考えはありませんでした。大多数は飢えと乾きによって途中で死亡し、目的地には着かないだろうと知っていました。強制移住の真の目的は盗みと破壊でした。
40:28
ヨハナン・レスピウス、アルメニア救済機関長(1896-1926)
コンスタンチノープルはアルメニア人の破滅を確信し、地方の知事、市長、地方官吏に彼らの抹殺を命令しました。何人かのベイは解任されました。批判した役人や軍人、公共活動家は迫害された。
40:59
ヴァルター・ルースラードイツ、アレッポ領事、1910-1918、
一人だけではなく、多くの役人が、大胆にも彼らは自分たちの地域にはアルメニア人はいないと返答したので、処刑されたと言われています。
41:05
トレーシー・アチキンソン、ハルプートのアメリカ布教団員、1902-1917
私たちは布教団の2、3人の者が、途中援助をおこなうために彼らと進む許可を申請しました。これは拒否されました。私達は彼らがウルファへ行かなければならないと言われました。そこで、我々は物を買い、貧しい人々には金を与え始めました。私たちは袋を作ってパンを入れて、配りました。始め私たちはあまりにも泣いたので、人生で泣くことしかできないように感じました。後では、あまりの悲惨さにもう涙はでませんでした。
42:30
アルミン・ヴェグナー、ドイツ軍駐トルコ衛生部隊将校、1915-1916
ここで犯された犯罪はあまりにも大きかったので、既に戦争中、ドイツを除くどこででもその反映が聞かれました。
ナレーション
ベルリンは出来事をよく把握していた。しかし、この映像で馬上のジェマル・パシャもその他のどの政府閣僚も、彼らの同盟国ドイツに対してこれを正当化をする必要は感じなかった。ドイツは彼らの犯罪を国益として受け入れた。
43:08
フリードリヒ・クレス・フォン・クレレイセンシュタイン将軍、ドイツ第一トルコ派遣軍1915-1917
我がドイツ兵および軍属は、憤慨していた。我々はドイツがトルコから距離を置いていないことに理解できなかった。逆にドイツ政府は沈黙のうちに我々を共犯の立場に置いたのである。我々の敵や中立国が沈黙によってこの犯罪行為に加わったという批判には十分な理由がある。
43:28
パウル・ヴォルフ・メッテルニッヒ伯爵、在コンスタンチノープル、ドイツ大使、
トルコ人がやったことは、我々がやったことです。我々の将校、我々の火器、我々の資金でした。我々の援助がなければ、作戦は崩壊したでしょう。アルメニア人の問題で我々がすべきだった全てはトルコ政府に結果の恐ろしさを教え込むことでした。私は一度注意を喚起しましたが、何の効果もなく、これは反って彼らの機嫌を損ねただけでした。私はそのとき、我々は軍事的理由から彼らと緊密であるので、我々の同盟国が大量殺害を続けさせて置くしか無いのであるという印象をもった。
44:09
テオバルド・フォン・ベトマンホルヴヒ、ドイツ帝国宰相1909-1917
私の考えでは、メッテルニヒ大使が提案するように戦時下に同盟国を公然と批判することは、全く前例のないことでした。我々の唯一の目標は、アルメニア人が滅びようとどうであろうと、戦争終結までトルコを我々に引きつけておくことでした。戦争続行には、トルコが同盟国であることが必要であったことは明白です。私はなぜメッテルニヒがこのような提案をしたのか理解できません。
第二部 アルメニア人ジェノサイドの証言 2 移送下の惨状
45:29
ハンバルツム・サハキアン、生存者、1908年シヴァス生まれ
我々は110日歩きましたが、これには彼らも驚きました。老人と病人は路傍で倒れ、憲兵に殺害されました。我々は空腹でしたが、前進の途中は水を飲むことも許されませんでした。
ナレーション
最初、東アナトリアのアルメニア人はウルファの町に移送された。コンスタンチノープルとトルコ西部のアルメニア人はアレッポに集められた。次に彼らはそこから、デイレゾルの近くの砂漠あるいはメソポタミア草原へ歩くことを強制された。移住は実は行き先の無い死の旅路であった。
46:35
ベアトリス・ロヒナー、スイス人の教師、保母、1899-1917
強制移住者の状況はとうてい述べることはできません。彼らは地面に生えている草を食べなければなりませんでした。もし、途中で死んだ駱駝でも何か他の動物の死骸でも見つければ、まるでそれが宝物であるかの様に奪い合いました。
ヴァルター・ロスラー、在アレッポ、ドイツ領事、1910-1918
トルコ政府は古来の方法を借りました。このような方法はドイツと同盟を望む国には相応しくありません。
レスリー・デヴィス、在ハルプート、アメリカ領事、1914-1917
アンバルツーム・サハキアン、生存者、1908年シヴァス生まれ。
クルド人と盗賊団が襲いかかり、我々の持ち物を奪い、少女や若い女性を連れ去りました。私は今でもよく覚えています。私の継母は妊娠していました。彼らは母を殺し、腹を刀で切り裂いて、胎児を引き出しました。その子は男の子だったので笑い、地面に放り投げました。私はその光景が頭から消えません。
49:29
ナレーション
強制移住者が進んだ経路はユーフラテス川の長い岸に沿って、砂漠と山を通っていた。ドイツの兵隊でアルメニア人を救う危険を冒した人はほとんどいなかった。同盟国の言い訳の前には彼らは無力だったのである。
49:39
フリードリヒ・クレス・フォン・クレイセンシュタイン将軍、ドイツ、第1トルコ派遣軍将軍、1915-1917
トルコ人は移送中の女性を殺して、反乱から自分たちの身を守らなくてはならないと言い訳した。女子供が強姦され誘拐された時、トルコ人はいつもクルド人や警官をコントロールすることができなかったと言い訳した。移送者が飢えると、そのときは彼らは列があまりにも長くて追いつかなので、供給が難しいと言い訳した。
50:02
タグーヒ・アントニアン、生存者、1900年ビトリス生まれ。
私の母と弟はとても衰弱していました。私たちは二人を街道の木下に置いてきました。もはや問題ではありませんでした。どちらにしろ、彼らはもうじき死んだのです。それから、別の騒ぎが起こりました。彼らは若い女の子を連れて行くのです。大勢の女の子が逃げて、身を隠そうとしました。私は偶然どこかで転んで一人きりになってしまいました。大勢の女の子がユーフラティス川に身を投げるのをみました。私はそうはしませんでした。もう、日は落ちていて、私はまだ地面に横になっていました。私は夜になると狼が来て食べられてしまうと思って、起き上がって、道を進みました。
51:40
テイスィー・アトキンソン、ハルプート、アメリカ布教団修道女、1915-1916
男は殺され、若い女は連れ去られ、歳のいった女は持ち物を奪われ、あとに残されました。次に何が起こったのか私には分かりません。
52:15
パウル・ヴィルフ・メッテルニヒ伯爵、駐コンスタンチノープル、ドイツ大使、1915ー1916
1916年6月、東部諸州におけるアルメニア人迫害は最終段階に入りました。トルコ政府の計画を邪魔できるものは何もありませんでした。我々の要請のみか、アメリカ大使や教皇使節の声明、協商国の脅し、最後の西側世論の尊重も功をそうしませんでした。
52:42
エルンスト・クリストフェル、トルコ盲人ホーム長、シヴァスとマラティア、1904-1919
バグダード鉄道には山羊と羊運搬用の貨車がありました。上の段ににも下の段にも家畜を積み込める様に、2段に分けられていました。移送者はこの貨車に家畜の様に積み込まれました。立ち上がることはできず、しゃがむことだけができました。詰め込まれすぎたのて、ほとんど寝ることもできませんでした。男女子供が、元気な物も病人も一緒くたに詰め込まれて、何日も運ばれました。
53:20
ナレーション
コンスタンチノープルからバグダードまでの鉄道は、ドイツの計画管理のもとに建設された。西アナトリアのブルさとイズミトの約10万人のアルメニア人にとっては、バグダード鉄道が死出の旅になりました。彼らは切符を買わねばなりませんでした。
53:23
ヴァルター・ロスラー、駐アレッポ、ドイツ領事、1910-1918
毎日、何千人もが運ばれました。病人と死にかかっている者は横になっていました。死亡者は無造作に次の駅で放りされました。死体はバグダードの駅の間にさえありました。
53:51
マルティン・ニーパーガ、アレッポ、ドイツ学校教諭、1913-1916
バグダード鉄道の技術者が、帰国後もっと恐ろしい証言をしていました。彼らはラアスアルアインとタッルアルウワイナ間の鉄道で、強姦された女性の死体の山を見ました。死体の多くは肛門に棒を差し込まれていました。
ヴァルター・ロスラー、駐アレッポ、ドイツ領事、1910-1918
バグダード鉄道の支配人はスイスの人ですが、彼は人生に色々ひどいことを目にしたが、こんなことは想像もできなかったと話しました。ジャマル・パシャは移送者の写真撮影を厳しく禁止しました。
ナレーション
彼らはアルメニア人の写真撮影を戦争地帯における無許可撮影を禁止した。しかしながら、何人かのドイツ兵は、アルメニア人を撮影し、密かに持ち帰った。彼らの写真は、20世紀最初の組織的ジェノサイドの正確な記録であり、ショッキングな証拠である。
アルミン・ヴェグナー、駐土ドイツ衛生部隊将校、1915-1916
最も恐ろしかったのは、日に日に増えて行く、孤児の集団でした。テント村の端の地面に、沢山の穴が掘られ、ぼろ切れで多いがかけられていました。彼らは、男の子も女の子もあらゆる年齢の子供達がぼろの下で身を寄せ合っていました。彼らは食べ物も無く、最低の人道的援助も無く、希望も無く、寒い夜に固まりあっていました。彼らの目は形容しがたく、苦しみのために望みを失っていました。たとえ、彼らの尺度が麻痺しているとしても、全世界に対して最も厳しい批判を投げていました。
56:18
マルティン・ニーパーガ、アレッポ、ドイツ学校教諭、1913-1916
モースルのドイツ領事ホルスタイン氏は、道路に敷き詰めることができるほど沢山の切り取られた子供の手見たと報告しています。これ以外に沢山の事実と他の実例が報告されているか、もっと悪いことが、アレッポとモースルのドイツ領事館に報告されています。
56:42
ナレーション
西欧諸国キリスト教布教団の孤児院と病院は、移送者の最後の段階であった。布教団の医師と看護婦は、せめて生き残った子供達を死亡から救おうと必死の努力をした。彼らを救うことがアルメニア人民族として生き残る最後の手だてであった。
57:28
ポール・ヴォルフ・メッテルニヒ伯爵、在コンスタンチノープル、ドイツ大使、1915-1916
アルメニア人の福利にあたるドイツとアメリカの組織によって運営されている孤児院、病院、学校に関するドイツトルコ政府の対応を、ここで述べておかなければなりません。当局はまだ閉鎖していなかったわずかの施設に対して、アルメニア人職員、孤児、学生を強制移住させると脅したり、またその他の圧迫を加えてきました。
57:39
マルティン・ニーパーガ、アレッポ、ドイツ人学校教師、1913-1916
トルコ政府の意図は、布教団、看護婦やただトルコにいたヨーロッパ人のどんな援助も、拒絶し、組織的に阻止したことで明白です。アメリカ政府の強制移住者をアメリカの費用、アメリカの船舶でアメリカに移送するという提案は、厳しく拒否されました。
ベアトリス・ロスラー、
トルコ政府は千人のアルメニア人児童を連行する命令を出しました。私が見た最後は彼らを移送する特別列車でした。その後。どうなったのか分かりません。
59:05
エルンスト・クリストフェル、シヴァスとマラティア盲人ホーム長。1904-1919
私達の盲学校にいた子供達は、ほとんど殴打か飢餓で死んだか、行方不明になりました。その中の6人の生存者の内3名が戻ってきました。私は彼らについてはほとんど知りません。足の悪かったマリアム・バジは餓死しました。小さい目の見えないレヴォンもそうです。カトゥンも目が見えませんでしたが、ギョルチク湖で溺死したと言われています。ギョルチク湖はメセレの近くの山の湖で、何千人ものアルメニア人が、溺死させられました。
60:08
パウル・ヴォルフ・メッテルニヒ伯爵、駐コンスタンチノープル、ドイツ大使、1915-1916
私はアルメニア人の残虐行為についてエンヴェル・パシャ、ジェマル・パシャと真剣な討論を行いました。彼らはこの問題を戦争の必要性で隠し、数十万の女、子供、老人が殺されていると避難されると、反乱の首謀者は処罰されなければならないと答えました。トルコ政府は自分自身と我々、同盟者に損害を与えました。
60:36
ヴァルター・ロスラー、ドイツ、アレッポ領事、1910-1918
トルコ政府は同盟国である我々と彼ら自身に損害を与えました。この行為はエジプトとパレスチナへ行く、唯一の通路を脅かし、数万人の人々で道路を閉鎖し、疫病で汚染しました。ここはことあれば軍隊の移動に必要な経路でした。
60:54
ナレーション
第一次世界大戦の最中、戦争の効果に不可欠な戦略的な軍事的判をトルコ政府は何度も無視した。強制移住は彼らの最も優先する政策であった。何千人もが移送の途中に死亡し、旅を生き延びたものは、結局ウルファに着いた。彼らは収容所に群がって、運命を待った。
61:30
ヤコブ・キュンツラー、ウルファの教会執事兼医療従事者、1899-1922
数十万の人々に取って、ウルファはメソポタミアへ向かう移送の中継点になりました。国境の鉄道の雰囲気は一層悲しげに、陰鬱になりました。列車は女性と4歳から12歳までの子供だけが乗ってきました。彼らは出発した時数千人も一緒にいましたが、ウルファに着いたのは小さな集団でした。ある時私は、強制移住者収容所にパンを持って行きました。ある女性が私に呼びかけて、パンの用途を訪ねました。貴方はなぜパンを持ってきたのですか、私たちが待っているのは死ぬことだけです。毒薬をもって来て下さい。そうすればここで死ぬことができます。私たちを先に行かせないで下さい。貴方は私たちが餓死することを知っています。赤ん坊を連れた母親達も、乳は枯れてしまっていた。他の食べ物はなかった。わずかな数の母親だけが、苦しませない為に子供達を川に投げ落としました。敷地に並んで座って、彼らは大声で泣き、泣き終わると、数度喘ぎ、死が彼らを救ったのです。
63:26
カーレン・イェッペ、デンマーク人アルメニア人孤児院長、1903-1935
それはウルファの城壁から砂漠へと続く死の街道でした。その街道は木が植えられていましたが、灌木や樹木ではありませんでした。死体があらゆる部分の飾りでした。あるものは死の門のすぐ側で死んでいました。病床にあった者達はがんばって数百メートルはって進みましたが、そこで力つきました。この世のどんな拷問があっても彼らは起き上がることはできません。彼らは最後の息をつき、苦しみから救われました。耐えられるものでは無かったからです。
64:19
ベアトリス・ロスラー、ムーシュのスエーデン伝道団、修道女、1901-1915
私達は何組ものアルメニア人の女と子供の集団とすれ違いました。彼らに付きそっていた警官(ジャンダルム)が、あけすけに言いました。街道にいる哀れな人々に何をしたか言いました。私たちは彼らはどこへ向かっているのか聞きました。もし、彼らが死ななかったら、私が殺すんですと答えた。
65:00
ナレーション
飢えや渇きで死なかった人々は、収容所襲撃の際に、殴り殺された。死出の旅はついにメソポタミアの平野か、当時ユーフラテス岸の小さな町であったテレゾルの近くの砂漠で終わる。デレゾルには、全トルコから来たアルメニア人のために強制収容所が作られた。その当たりには生き残った6千人しかいなかったが、ほとんど歩く骸骨だった。飢餓のために体型は変わっていたが、顔つきはとても人間的であった。
65:45
ベアトリス・ロスナー、スイス人の教師、保母、1899-1917
強制収容所の人々のテントのすぐ近くに、埋葬されていない死骸が積み上げられていた。全員が下痢に苦しんでいました。テントの中も外も不潔さは言い表せないほどでした。
66:20
ヴィルヘルム・リッテン、(イランの)タブリーズ、ドイツ領事館主任、1914-1918
トルコの埋葬部隊は朝から夜遅くまでの作業を続けましたが、それでも対応することができませんでした。ある年老いた警官は25日間、キャンプにいると言いました。彼は、アルメニア人は政府に反対しているものがいるのだから、当然だと言いました。それでも、死ぬまでゆっくりと苦しめるよりは、すぐに射殺する方がいいと言いました。彼は、もう耐えられなくなって、正気を失うに違いありません、そうすれば際限のない悲惨を見ることは無いのです。
アルミン・ヴェグナー、駐土ドイツ衛生部隊将校、1915-1916
私はある時渓谷の入り口に、人骨が積み上げられているのを見つけました。白い頭蓋骨はまだ白髪をつけていました。へらの様にきれいにカーブを描いた子供の肋骨がありました。その瞬間私の目は堪え難く行き場の無い悲しみに涙であふれました。私の人生に義務づけられていたあらゆる希望、あらゆる愛の種は消えさるだろうと感じたのです。
67:53
ヴィルアム・リッテン、(イランの)在タブリーズ、ドイツ領事館主任
同じような悲劇は、トルコ中で報告されています。砂漠の砂と農村が接しているところでは、数十万の死体が。私がつけていた手帳を読み上げます。午後1時、若い女が一人道路の左側に横になっている。茶色の靴下以外は裸である。彼女はうつ伏せになっていて、頭は埋められ、腕は組んでいる。1時30分、私の右に老人が裸で溝の中に仰向けで倒れている。その2歩先に、少年、裸。うつ伏せで、臀筋が引き出されている。2時、5基の新しい墓。私の右に男、体も性器も血だらけである。3時45分、10歳ほどの女の子の血だらけの骨。22体の遺体、
69:32
ヘンリー・モーゲンソー、在コンスタンチノープル、アメリカ大使、1913-1916
ある日、タラート・パシャは私に驚くべき質問をしました。「ニューヨーク生命保険会社」とニューヨークの「純正資産生命」はアルメニア人相手にいい商売をしている。パシャは言った。アルメニア人はほとんど全ていなくなったのであるから、どこにもその金をつかむやつはいない。これは国家の物となる。国家が受取人となる。アルメニア人契約者の完全なリストが欲しいんだが、取り寄せてもらえないであろうか。これはあまりにもひどくて私は平静を失った。私から受け取られるようなものではありませんなと言って、私は彼の前から退去した。
第二部 アルメニア人ジェノサイド 3 虐殺のあとで
70:15
ナレーション
1919年協商国がコンスタンチノープルに入城し、トルコとドイツは敗戦した。青年トルコ党は権力の座を追われ、彼らが圧迫していた議会は彼らにジェノサイドの責任を問うた。1919年、法廷は主要な被告エンヴェル・パシャ、ジェマル・パシャ、および政府首班タラート・パシャに欠席裁判で死刑を宣告した。彼らはドイツの助けで、ドイツ軍艦で逃亡した。タラート・パシャはベルリンに逃げ、偽名を名乗って、妻とともに快適に暮らした。忠実な同盟者であるドイツの罪については沈黙した。1921年3月15日、ベルリン中心部で射殺された。殺害者は直ちに逮捕された。彼は自分は人を殺したが、殺人者ではないと宣言した。この暗殺は世界の新聞の第一面を飾った。しかし、犯人の背後に復讐を求めるアルメニア人のグループがあったことが、判明したのは何十年も経ってからであった。若い暗殺者ソゴモン・テフリリャンの放った一発の射撃という行為によって、ドイツでは初めてジェノサイドが注目のまとになった。。
71:47
アルミン・ヴェグナー、在トルコ、ドイツ軍衛生将校、1915-1916
アルメニア人学生がピストルを打ったあと、法廷では、世界の目の前では2度目度、ドイツの人々には初めて、戦争の血塗られた1章が明らかになった。青年トルコ党によるアルメニア人に対する組織的冒涜の真実は、暴露された。
ナレーション
裁判はベルリンの動物園地区市法廷で行われた。ドイツ人の外交官は証言を禁止された。外務省は裁判がジェノサイドに、あるいは残虐行為におけるドイツの役割に焦点があたることを嫌った。丁度たった三日でテフリリャンは釈放された。
アルミン・ヴェグナー、駐土ドイツ衛生部隊将校、1915-1916
テフリリャン裁判の中で議論された事件のインパクトはあまりにも破壊的であったので、殺人という明らかな暴力行為があったにもかかわらず、裁判官は彼には罪はないとしたのである。
ナレーション
彼が世界中に及ぼした事実、得られた歴史的意義にも関わらず、裁判官は直接的には何も言うことなく1民族全体の破滅と処罰を無視したのである。ポーランドの若い学生であったラファエル・レムキンは裁判の18年後、国連ジェノサイド条約の草案を執筆した。
73:30
ラファエル・レムキン、法律家、ジェノサイド学者、1900-1959
テフリリャンは人類の良心の糾弾のために自分自身を派遣したのです。この時は無辜の民族にたいする犯罪が大きな意味をもっていました。明解な答えはありませんが、世界のある感情が、人種的あるいは宗教的に原因のある集団殺人に対する法律を作ったのです、主権は数百万の無辜人々を殺す権利であると誤解されてはなりません。
74:01
ナレーション
レムキンの着想が形をとるのに30年がかかった。しかし、1920年フランスの講和会議では、アルメニア人はジェノサイドに責任ある者は国際裁判にかけられるという約束を与えられた。しかし、3年後トルコ政府の新しい指導者ケマル・アタチュルクは西側の重要な同盟国と見られる様になった。戦略的問題に優先権が与えられた。アタチュルクは新しい同盟に高い値段をつけた。ジェノサイドの責任者追求とアナトリアに独立アルメニアをつくることに対するアタチュルクの反対は、妥協として受け入れられた。さらに彼は生き残ったアルメニア人の故郷帰還を拒否した。
フォン・クレセンシュタイン将軍、ドイツ第1トルコ派遣派遣軍、1915-1917
トルコの新政府は避難者がアナトリアの自宅に帰還することを拒否した。トルコ人はアルメニア人の帰還はトルコ軍にとって基本的に危険であると言う口実を設けた。
15:05
ナレーション
ジェノサイドの生存者はわずかの女性と特に子供だった。彼らは使い易い家内奴隷として残されるか、妻や妾にされていた。彼らは虐待に身を守るすべがなかった。布教団は疲れを忘れ、可能な限り彼らを救いだした。
1:15:27
カレン・イェッペ、デンマーク人アルメニア人孤児院長、1903-1935
誰かを失望させるのはもう沢山です。生き残ったアルメニア人がどうしてこんな状況で生き続けていくことができるでしょうか。大勢の、大勢の孤児たちです。彼らはの限界は超えていました。
76:03
ヤコブ・キュンツラー、ウルファ教会執事兼医療従事者、1899-1922
戦後、私の妻と私は8千人の子供をレバノンに連れてくることができました。ハルプートから5千人の子供達を大きな集団で連れてこなくてはなりませんでした。その月かその前後に7千人の子供達を2つのグループにして連れてきました。移送に要した3ヶ月間、私は1度に7千人を子供達を運びました。歓んでいる子供達の顔を見るのは素晴らしい経験です。偉大な日々でした。エジプトを出るときのイスラエルの民もこれほどは嬉しくは無かったでしょう。
76:43
ナレーション
ヤコブ・キュンツラー、写真の右側、のような人々のお陰で、50万人のアルメニア人が青年トルコ党のジェノサイドを生き残った。
77:03
ナレーション
生存者は今では皆百歳以上ですが、レバノン、フランス、アメリカ合衆国、コーカサスに作られた新しい小さなアルメニア共和国に新しい故郷を見つけました。トルコ自体には6万人のアルメニア人と出自のことを知らない人々が残っている。
78:02
テレビ司会者
ジェノサイドという言葉は、種族あるいは集団を意味するギリシャ語と殺すを意味するラテン語から作られました。ジェノサイドという言葉を作られた、レムキン博士はイェール大学の法学教授で、国連に関する研究教育にあったておられます。レムキン博士、どのようにしてジェノサイドに興味を持たれましたか、簡単にお話下さい。
80:52
ラファエル・レムキン、法律家、ジェノサイド学者、1900-1959
私はジェノサイドが実にしばしば起こることを知って、ジェノサイドに興味を持ちました。それはアルメニアで起こり、パリ講和会議で骨を投げつけられました。というのはジェノサイドを実行した犯罪者達は結果的に処罰されなかったからです。
ニュースとナレーション
1934年にタラート・パシャの遺体は、ナチ党員が出席する盛大な国家式典で哀悼の栄を尽くされ、ベルリンからトルコへ送られました。1939年8月22日、ポーランド侵入の数日前、ヒットラーは国防軍の高級将校の前で、「私はわが髑髏図軍団にポーランド人、男、女、子供を容赦なく殺すことを命じた」。彼は言い足した。「今、誰がアルメニア人絶滅のことを思い出すだろうか」。ヒットラーの冷笑的問いかけは、国際的な関心の呼びかけなしに、巨大な犯罪を犯すことが可能であることを示している。ラファエル・レムキン「何の行動も取られなかったので、ヒトラーは好きな様に行動してかまわないと感じていた。これは最終的に、なにかするように世界を動かさせた。私に関しては、法律家として、このような犯罪は国際法に依って罰せられなければならないと思いました。ラファエル・レムキンは国際連盟ジェノサイド条約の草案を作成したが、1948年には大多数の加盟国によって承認された。二年後、条約はトルコによっても承認された。トルコによって適用された方法は、強制収容、選別、強制移住、死の行進、最終収容所のように、ヒットラーのホロコーストだけでなく、さらに色々なジェノサイドに適用されると思われる。「人権、社会の進歩、国際平和を保護するために、この条約はできるだけ早く全ての政府によって承認され、あらゆる議会によって批准されるべきである。
80:54
ラファエル・レムキン、法律家、ジェノサイド学者、1900-1959
ユーフラテスに投げ入れられた、あるいはデイレゾルへいく途中に虐殺されたアルメニア人男女子供の苦しみは、国連ジェノサイド条約受け入れの犠牲となった。
第三部 エピローグ
ナレーション
アルメニア人の殺害は国連によってジェノサイドであると定義された。殺害者に関しては、トルコの法廷において欠席死刑を宣告されたにも関わらず、トルコでは名誉を与えられたままである。イスタンブルには犯罪なぞ起こさなかったようにエンヴェル・パシャとタラート・パシャに二つの廟がある。
81:40
ジェミル・チチェク、トルコ共和国副首相。
これらのことは終わったことである。将来を見ようではないか。過去を見ていたのでは進歩はできないものだ。これは私の言論の自由の枠組みだ。
イスタンブルとアンカラではどこでも、トルコではいたる所に、犯罪者達の玉枝をつけた通りにあたる。タラート通りや広場、エンヴェル通り。小学校にジェノサイドの責任者の名前をつけても、侮辱であるとは思われていない。
82:29
パトリク・デヴェジアン、フランス工業相
まるで、今のドイツでナチ政府の閣僚が広く賞賛されているかのようである。今、ベルリンにアドルフ・アイヒマン通りがあると若いユダヤ人が知ったらどんな反応が起こるか考えて下さい。
今も、以前同様トルコは重要な同盟国です。今もそのときと同じく、各国政府はジェノサイド問題に対してはハッキリしない態度を持ち続けています。フランス、ドイツ、ロシアのような国々が断罪しているにもかかわらず、アメリカ合衆国は今までトルコに公的にジェノサイドを認める要求をはっきりとしていません。アルメニア人の正義と帰還は言うに及ばずです。アメリカ合衆国はこれらの国々の中の最初の列にあります、1917年までトルコに対して中立でした。そこで相談しました。アメリカ合衆国は大使を含む外交官の多くの報告を持っています。その多くは公共機関に保存されています。彼らはアルメニア人の強制移住と絶滅組織の明瞭かつ疑いない証言が含まれています。ですから、アメリカ合衆国は、他の国よりはジェノサイドを無視したと言う避難を受けずにすみます。
83:57
アダム・シフ、アメリカ合衆国下院議員、民主党
もし、世界最強の国が、このジェノサイドについて率直に発言する気概が無いとしたら、どうしてトルコがそうしなければならないでしょうか。
ナレーション
2007年、何回か失敗した後、アメリカ合衆国議会はジェノサイド承認決議案を提出しました。トルコは外交関係で脅しをかけ、ワシントンから大使を召還しました。
84:22
アルビオ・シレス
アメリカ合衆国下院議員民主党
なぜ突然このような決議案についてこの騒動が?ジェノサイドはあったんだ。どうしてそうと認めて、先に進んではどうなんだ。私は、ここで間違った方に投票すると」まるでトルコ人の刃が頭の上にぶらさがっているような、」脅されているような気がします
84:43
ナレーション
現在の大統領、当時の上院議員バラク・オバマもこの議論に参加している。歴史的事実は彼には明らかである。
84:57
バラク・オバマ アメリカ合衆国上院銀2007年、民主党
否定する人々に対しては、アルメニア人のジェノサイドは確かにあったと言いましょう。でも、これをトルコやその他の国々は、今日でもなお、否定しています。しかしながらこれは外交的に非常に微妙なテーマです。
ナレーション
しかし、決議案はG.W.ブッシュ大統領の仲裁に依って破れました。彼の国務長官コンドレサ・ライスは聴聞会に出てこなくてはなりませんでした。
アダム・シフ
貴方とゲイル院内総務は委員会にアルメニア人ジェノサイド決議案に反対する様に求めました。それはトルコが同盟国だからですか?これは150万人の民族を抹殺を無視する道徳的に有効な理由ですか?私達はホロコーストであろうとジェノサイドであろうと歴史研究者の研究テーマにすることを許してはいません。ですから、まさにこの事例で、トルコ人に対するジェノサイドの決定を残すのでしょうか?その理由は私には学者のように明白です。
コンドレサ・ライス、アメリカ合衆国国務長官2005-2009、共和党
学者としてはその理由は明白です。しかし、国務長官としては、判断をしないのがアメリカ合衆国にとって最前の利害であると信じます。トルコ人とアルメニア人は自分たちの間で結論を出すべきです。で、ええ、トルコはよい同盟国です。
ナレーション
イラク戦争の開始から、アメリカ合衆国はトルコ国内の基地に頼っている。アメリ合衆国の飛行機はここからイラクとアフガニスタンへ飛んでいる。
86:20
アメリカ合衆国下院議員、アダム・シフ、アメリカ民主党
もし我々がジェノサイド決議案を議論するのなら、トルコ政府はインジルリクのアメリカ合衆国空軍基地を閉鎖し、クルド人を追跡してイラクに進入すると脅している。我々の政府は、今のもその前のも、圧力に負けてしまった。
87:02
ナレーション
バラク・オバマは、今やアメリカ合衆国大統領としてトルコ議会で演説した。彼はこの記念演説においてアルメニア人ジェノサイドに関して直接発言しなかったし、トルコに歴史的事実をみとめるように求めなかった。
ロバート・メネンデズ
アルメニア人のジェノサイドを認めないのは欺瞞だと思います。アメリカ合衆国がこういう考えを望まない唯一の理由は、・・・。私は大統領が形式的にジェノサイドを認めないことを見て、遺憾に思っています。私は大統領が個人的にはアルメニア人殺害をジェノサイドであると確信しています。
彼は上院議員の時にそういっています。上院議員の時と大統領の時で歴史的事実が変化したとは想像できません。彼にとっての問題は明らかに我々の対トルコ外交政策なのです。
ナレーション
同時に、過去に関する議論はトルコで激しくなっている。タブーは壊れ始めている。議会は歴史家達が最初に事実を研究するべきだという要望に反応している。長い間、確実だと思われてきたことを、再度検証しなければならない。
2008年ギュル元首が初めて小さな隣国アルメニアを訪問していた間、彼は国境通過と外交関係についてだけ話した。ジェノサイドは彼のテーマではなかった。謝罪も、起こったことに対する単純な人間らしい認識もなかった。1915年以来随分時代が過ぎましたが、問題は閉ざされたわけではない。トルコ政府は痛みを和らげる為に何ができるか考えるべきである。
ラッフィ・ホヴァネスィアン、アルメニア共和国外相
(ここから字幕なし)
数百万ドルをベルリンやワシントンや別の地域でジェノサイド決議を避けさせる為のロビー活動に使うのではなく、アルメニア共和国やジェノサイドの結果であるディアスポラのアルメニア人に悪かったことを正すにはどうしたらいいか尋ねることです。閉鎖された国境を開くことは何でもありません。文化的伝統を記憶し再興するにはどうしたらよいか言うことです。
89:47
ナレーション
殺害されたジャーナリスト、フラント・ディンクは、長く絶えていた議論を始めようとして、努力したが、あまり効果はなかった。かえってそのため命を失った。しかし、彼の死によって20万人のトルコ人の抗議デモが始まった。フラント・ディンクや真実を求めるアルメニア人に連帯するこの国でもかつてなかったデモであった。
アウディン・エンギン、トルコのジャーナリスト
この国で、過去を否定するこのような運動が起こるのは普通ではありません。
90:30
ヴォルカン・ヴラル、元トルコ、ドイツ大使、国連大使
私は歴史のあるこの国は、起こったことを謝る用意をするべきであると思います。勇気を持つべきです。
デライル・ディンク フラント・ディンクの娘
トルコで大勢の人々が通りに出て、我々はフラント・ディンクだ、我々はアルメニア人だと言うとは想像できませんでした。これは公衆の声です。政府はなにがしかを聞き届けなければなりません。
タイトル
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ニュース
タイトル写真
2015年04月14日 12:12
扉の写真は、アルメニア共和国イェレヴァンのジェノサイド犠牲者慰霊塔です(出典 ウィキメディアコモンズ)。
訪問者の皆様
2015年04月13日 07:50
4月13日朝、耳だけ起きてテレビのニュースを聞いておりましたら、ローマ教皇が、アルメニア人ジェノサイドを批判したので、トルコ外相が遺憾の意を表明したとの報道がありました。4月には色々な報道があると考え
ウェブサイト開設
2015年04月13日 07:49
本日新しいウェブサイトを開設しました。ドイツ映画『カタストロイー』をご覧になるかも知れない方のために、私なりに解説を試みたものです。シナリオはてに入りませんでしたので、内容は私が聞き取れた範囲の解釈と